東京高等裁判所 昭和35年(う)2457号 判決 1963年12月11日
控訴人 原審検察官 築信夫
被告人 北沢勝 外三名
弁護人 小林直人 外四名
検察官 伊藤嘉孝
主文
本件控訴を棄却する。
理由
控訴の趣意は東京高等検察庁検事が提出した新潟地方検察庁検事築信夫作成名義の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は弁護人小林直人、同渡辺喜八、同石田浩輔、同坂上富男及び同堀之内直人が連名で提出した答弁書記載のとおりであるから、いずれもこれを引用する。
右控訴の趣意に対する当裁判所の判断は次のとおりである。
所論は、要するに、原判決は鉄道営業法第二十五条は抽象的危殆犯を規定したものと解せられるべきであるのに具体的危殆犯を規定したものと解した点において法令の解釈適用を誤つているのであり、仮に同条を具体的危殆犯の規定であるとする見解を採つた場合においても、具体的危殆犯の成立に必要とされる「危険の発生」の解釈を誤つた点において法令の解釈適用を誤り、この法令の解釈適用の誤の結果本件の踏切警手の職場離脱行為によつては同条の具体的危殆犯の成立に必要とされる危険の発生はなかつたものとする点において事実誤認があるのであると言い、さらに詳言して同条は「……旅客若ハ公衆ニ危害ヲ醸ス虞アル行為アリタルトキハ……」と規定し、「……虞アリタルトキハ……」と規定しているのではなく、「危害ヲ醸ス虞アル」というのは、行為の性質を規定したもので行為の結果を規定したものではないから、同条は具体的危殆犯と異なり危険の発生を構成要件としたものではなく、鉄道係員の職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為の中旅客もしくは公衆に危害をかもす虞のある行為、換言すれば旅客もしくは公衆の生命、身体を侵害する危険発生の可能性のある鉄道係員の職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為を構成要件として規定した抽象的危殆犯と解するのが相当であるとし、実質的にも鉄道事業の性質から考え高速度交通機関である列車の運行には本質的に事故発生の危険が潜在的に随伴していることは多言を要しないところであるが、それにもかかわらずなおその運行が許容されているのは、鉄道が事故発生の危険を防止するためにその組織、機構、設備及び運営について人的物的に万全の措置を採つていることを前提としているのであつて、列車の運行に直接的に関係ある職務に従事する鉄道係員が、その定められた職務を尽すことは、事故発生の危険を防止するための措置の一環として特に重要なものであるということから、結局鉄道係員の職種のうち列車の運行に直接関係ある職種の職務に従事する鉄道係員が職務上の義務に違背し又は職務を懈怠するときはそこに直ちに事故発生の危険を生ずるものといわなければならないと主張するのである。
しかし、鉄道営業法第二十五条に「鉄道係員職務上ノ義務ニ違背シ又ハ職務ヲ怠リ旅客若ハ公衆ニ危害ヲ醸スノ虞アル行為アリタルトキハ……」とあるのは、「鉄道係員職務上の義務に違背し又は職務を怠り旅客もしくは公衆に危害を醸すの虞を生ぜしめたときは……」と同義に解すべきもので、したがつて、旅客又は公衆に危害を醸すの虞、換言すれば、旅客又は公衆の生命身体を侵害する可能性のある状態を生ぜしめたかどうかは、右職務上の義務違背又は職務懈怠のときの具体的事情に照らしこれを決定すべきものといわなければならない。けだし、鉄道営業法は明治三十三年に制定された法律で、その罰則の規定も、今日から見れば、その形式体裁必ずしもととのわず、意義明確を欠く点もないとは言いがたいが、同法第二十五条に「旅客若ハ公衆ニ危害ヲ醸スノ虞アル行為アリタルトキハ」と規定してあるからといつて、必ずしも検察官所論のように右の「旅客もしくは公衆に危害を醸すの虞」は、行為の性質を規定したもので行為の結果を規定したものではなく、したがつていわゆる危険の発生を構成要件として規定したものではないと論断しなければならないわけのものではないし、又実質的に考えても、高速度交通機関である列車の運行には本質的に事故発生の危険が潜在的に随伴し、それにもかかわらずなおその運行が許容されているのは、鉄道が事故発生の危険を防止するために、その組織、機構、設備及び運営について人的物的に万全の措置を採つていることを前提としているのであり、したがつて列車の運行に直接的に関係のある職務に従事する鉄道係員がその定められた職務を尽すことは事故発生の危険を防止するための措置の一環として特に重要なものであることは、所論のとおりであるとしても、一般に鉄道係員がその職務上の義務に違背し又はその職務を怠つた場合、そのかぎりにおいては、たとえば日本国有鉄道法第三十一条に戒告から免職にいたる懲戒の規定を置いているように、一応内部規律違反の問題として当該組織内部において制裁の措置を講ずれば足り、所論のように列車の運行に直接関係ある職務に従事する鉄道係員のそれであるからといつて、何ら具体的に旅客又は公衆に危害を釀す虞を生ぜしめた場合でないのにかかわらず、なおかつ一般社会秩序の維持のために刑罰を科する必要があるとは必ずしも言いがたいからである。原判決も、その説明を通読すれば、この点については同一の趣意に出たものと認められ、正当であると考えられるから、原判決に所論のような法令の解釈を誤つた違法はない。
そこで本件について鉄道営業法第二十五条に該当する事実の存否について調査してみると、原判決の認定するように、被告人北沢は国鉄労働組合新潟地本青年部長、被告人田沢は同地本西吉田支部執行委員長、被告人佐藤は同支部東三条施設分会副執行委員長、被告人遠藤は同分会書記長として、いずれも本件公訴事実にあるとおり、昭和三十二年七月十日以降国鉄労組の行つたいわゆる処分反対闘争に際し、右東三条施設分会の闘争指導に当つていたものであるが、同月十五日その直接又は間接の慫慂により、国鉄弥彦線東三条駅から北三条駅を経て燕駅にいたる間の三条市内所在下田島、田島、第一県道、旭町、居島、泉薬寺、瑞雲橋の七ケ所の踏切に勤務中の右分会所属組合員である中沢幸吉ほか六名の踏切警手をして所属上司の許可なくして同日午前九時四十分ごろから十時五十分ごろまでの間その職場から離脱させて職場大会に参加させるにいたつたことが記録により認められる。そして踏切警手の職務が踏切道を看守して危険の発生を防止するにあることは、保線区従事員職制及び服務規程第七十三条ないし第七十六条の規定等から明らかであり、右七名の踏切警手がその職場の踏切を離れることを予定された午前九時四十分ころから約一時間の間に本件各踏切を通過する予定の列車として弥彦発東三条行第二一三列車及び越後長沢発弥彦行第二一四列車のあつたことも、記録上認められるから、それらが所定の時刻表のとおりに運行されることを前提とすれば、右七名の踏切警手が職場を離脱した行為が旅客又は公衆の生命身体を侵害する可能性のある状態を生ぜしめたということができることはもちろんであり、したがつてこれを慫慂した被告人らの責任も問題となつてくるわけである。しかし、原審証人江川洋、同近藤泰吾、同二宮成彦、同青木一郎、同安斎終助、同浅賀蔵三、同田辺太郎、同田中保次、同浦沢芳彦、同中沢幸吉、同城丸清、同野口ノリ、同神田末五郎、同大橋忠夫、同佐藤正一、及び同堀正一の各供述、被告人らの原審公判における各供述、被告人らの検察官に対する各供述調書、押収してある運転取扱心得一冊(東京高裁昭和三六年押第八九九号の三)及び列車運転状況表三通(前同号の四ないし六)に当審における証人江川洋、同二宮成彦、同青木一郎、同田辺太郎及び同一条幸夫の各供述並びに被告人遠藤の当審公判における供述を総合してみると、本件の場合、第二一三列車の所定の時刻は燕駅発午前九時四十三分、北三条駅着同九時四十九分三十秒、同駅発同九時五十分三十秒、東三条駅着同九時五十五分、第二一四列車の所定の時刻は東三条駅発午前九時五十七分、北三条駅着同十時一分、同駅発同十時二分、燕駅着同十時八分であつたところ、被告人遠藤は、最初の第二一三列車が燕駅を発車する予定の午前九時四十三分より三十分以上も前の同九時十分頃に各踏切警手の上司である新津保線区長江川洋に対し東三条駅燕駅間の保線区所属の踏切警手全員が北三条駅構内において行われている職場大会に午前九時四十分から参加することになつた旨を電話で通告し、この通告があつたことの結果として、江川保線区長においては、代務者を調達することには成功しなかつたが、東三条線路分区長近藤泰吾に命じて午前九時二十五分ころ北三条駅に当務助役浅賀蔵三に対し隣駅すなわち燕駅及び東三条駅より列車を受け入れたいように申し入れさせ、右浅賀助役より燕駅及び東三条駅に対し連絡があるまで北三条駅に向けて列車を発車させないように申し入れて右両駅の承諾を得たことにより、午前九時二十六分ころには列車停止の手配を完了することができ、その結果として、定時としては午前九時四十二分に燕駅に到着すべきところを延着して同九時五十四分三十秒に同駅に到着した第二一三列車はそのまま同駅に停車し、定時としては午前九時四十分三十秒に東三条駅に到着すべきところを延着して同十時十三分三十秒に同駅に到着した第二一四列車もそのまま同駅に停車していたこと、被告人らが中沢幸吉ほか六名の踏切警手に対し直接又は間接に職場を離脱するように慫慂したのは、東三条線路分区長近藤泰吾が午前九時二十五分ころ北三条駅の浅賀助役に対し燕駅及び東三条駅からの列車を受け入れないように申し入れたことを確認してから後で、客観的には右浅賀助役が北三条駅に向け列車を発車させないことにつき燕駅及び東三条駅の承諾を得て列車停止の手配が完了してから後であり、前記七名の踏切警手が午前十時三十分ころまで職場大会に参加し遅くとも同十時五十分までには職場に復帰する予定で現実に各踏切を離れたのも、右のように列車停止の手配が完了した後であつたことが認められ、又本件のように線路の故障以外の事由によつて列車を運行することができなくなつた場合においては、保線区長としては応急措置として暫定的に列車の運行を停止することができるだけであつて、最終的のことは所轄新潟鉄道管理局長の権限に属することであるため、江川保線区長からは午前九時三十五分ころ同管理局施設部総務課及び保線課に対し運行停止の手配をとつてあることをも付け加えて事態を報告して指示を求める一方、北三条駅の浅賀助役からも同管理局運転部列車課の運行係首席青木一郎に対し同様の報告をして指示を求めることがあつたので、同管理局においては局長が最終的に事態に処する方策を決定することになつたわけであるが、局長としてはこの場合当然昭和二十六年総裁達第三〇七号安全の確保に関する規程第十七条に「列車、自動車の運転並びに船舶の運航に危険のおそれがあるときは、従事員は、一致協力して、危険をさける手段をとらなければならない。万一正規の手配によつて危険をさけるいとまのないときは、最も安全と認められる処置をとらなければならない。直ちに列車又は自動車をとめるか又はとめさせる手配をとることが多くの場合危険をさけるのに最もよい方法である。」と、又第六条に「従事員は、常に旅客、公衆、貨物の安全のため万全の注意を払わなければならない。」とある同規程の精神を汲み、安全の確保を国の最大使命とする立場をとり、列車の運行を開始しようとするときは、代務者を各踏切に立てる等旅客又は公衆の生命身体を侵害する事態を招来する可能性のない方法を講じたうえでこれを運行するであろうし、もしも右のような方法を講ずることができず、列車を運行することにより旅客又は公衆の生命身体を侵害する可能性のある状態の生ずることが認められる以上は、列車の運行を開始しないであろうと一般に期待すべきは通例であるから、前記踏切警手の職場離脱中その間当該踏切について旅客又は公衆の生命身体を侵害する可能性のある状態を生ずるような方法で列車が運行されるようなことは、被告人らが予期しなかつたことであり、又一般に予期し得べかりしところでなかつたといわなければならない。したがつて、以上のような事実関係の下においては、客観的に本件踏切警手の職場離脱行為によつて旅客又は公衆の生命身体を侵害する可能性のある状態を生ぜしめたということは相当でないばかりでなく、少くとも被告人らの認識の点から見ても、仮に本件踏切警手の職場離脱行為により旅客又は公衆の生命身体を侵害する可能性のある状態を生ぜしめたと論断しても、その点について故意又は過失いずれの責任を問うこともできないことはいうまでもない(本件において前記踏切警手の職場離脱中、一応列車の運行停止の措置がとられた後新潟鉄道管理局長河村勝が運転部列車課長二宮成彦らと協議した結果、昭和二十三年総裁達第四一四号運転取扱心得第五百六十二条の四に、踏切警報機又は自動しや断機が故障のため使用することができない場合の規定として、その場合には「長緩汽笛一声の合図を行いつつ必要に応じ速度を低下して注意運転しなければならない。」とあるところから、右第五百六十二条の四の規定を準用して列車の運行を開始することが適当な処置であるとの判断に立つて、右にいわゆる注意運転に加えて誘導者を同乗させる誘導者付き注意運転ともいうべき運転方法をとらせて第二一三列車及び第二一四列車を運行させることにしたことが、記録上認められるが、当審における事実の取調の結果を参酌しても、原判決認定のとおりそのために旅客又は公衆の生命身体を侵害する可能性のある状態を生ぜしめたとは認め難い。)。
なお、検察官は、当局が踏切警手の職場離脱の事態に対処して、列車を停止したり注意運転の方法によつて運行させたりしたことは、事故の発生をなからしめるための緊急的応急措置である、踏切警手の職場離脱によつて事故発生の虞がある状態が発生したのでそれを未然に防止するためにとつた非常措置であつて、危険があつたからこそとられた措置であり、危険がなかつたならばかような措置は不必要であつたわけであるというけれども、問題は踏切警手の職場離脱のとき旅客又は公衆の生命身体を侵害する可能性のある状態を生ぜしめたかどうかの点に存し、当局が列車停止の措置をとつたときはまだ職場離脱の事実がなく、したがつて事故発生の虞ある状態が発生していたのではないから、所論は当らない。所論は、なお、原判決は踏切警手が踏切道を看守していないために無用の者が踏切道より線路内に立ち入りために発生すべき危険の有無については全然考慮に入れていないというが、右の場合も当該踏切について旅客又は公衆の生命身体を侵害する可能性のある状態を生ずるような方法で列車が運行されることを前提とした範囲内においてのみ踏切警手の責任を考えるべきであるから、所論はなんら前記認定を左右するものではない。
本件の場合踏切警手の職場離脱行為によつて所定の列車の運行を遅延させる結果を生じ、一時的にもせよ列車運行計画が混乱され高速度交通機関としての鉄道の効率が減殺され旅客又は公衆に迷惑を及ぼしたことは明らかであるから、もしその意味において内部規律による制裁措置のほか、さらに処罰を必要とするというならば、それはその趣旨にそう別途の刑罰法規にまつべきであつて、鉄道営業法第二十五条にいわゆる旅客又は公衆に危害を醸す虞ある状態を生ぜしめたとして責任を追及するわけにはゆかないのである。
以上の次第で、原判決とその理由の説明に異なるところはあるが、結局犯罪の証明なしとした点において原判決は正当であり、本件控訴の趣意は論旨いずれも理由がないことになるから、刑事訴訟法第三百九十六条により本件控訴を棄却すべきものとし、主文のとおり判決する。
(裁判長判事 足立進 判事 栗本一夫 判事 上野敏)
検察官築信夫の控訴趣意
原判決は、判決理由の第三の一の「本件闘争に至る経緯並びに踏切警手の職場離脱」の項において、被告人等が中沢幸吉外六名の踏切警手を慫慂し、踏切警手はその慫慂により、それぞれ所属上司の許可なくして執務場所を離れてはならない職務上の義務に違背して職場から離脱することを決意し、弥彦発東三条行第二一三列車及び越後長沢発弥彦行第二一四列車が下田島踏切外六ケ所の踏切を通過すべき時間に当る昭和三十二年七月十五日午前九時四十分頃から午前十時五十分頃までの間所属上司の許可を受けないで各踏切から離脱した事実を詳細に認定しながら、鉄道営業法第二十五条は具体的危殆犯を規定したものであるとし、具体的危殆犯の成立に必要な危険の発生を認められないから、犯罪の証明なしとして無罪の言渡を為した。
この原判決は、鉄道営業法第二十五条は抽象的危殆犯を規定したものと解せられるべきであるのに具体的危殆犯を規定したものと解した点において法令の解釈適用を誤つているのであり、仮に同条を具体的危殆犯の規定であるとする見解を採つた場合においても、具体的危殆犯の成立に必要とされる「危険の発生」の解釈を誤つた点において法令の解釈適用を誤り、この法令の解釈適用の誤の結果本件の踏切警手の職場離脱行為によつては同条の具体的危殆犯の成立に必要とされる危険の発生はなかつたものとする点において事実誤認があるのである。以下順次にこれを論ずることにする。
第一、原判決は、鉄道営業法第二十五条を具体的危殆犯と規定したものであるとする点において法令の解釈を誤つたもので、その誤が判決に影響を及ぼすことが明らかである。
原判決が、鉄道営業法第二十五条の犯罪を具体的危殆犯であるとする理由として判示するところは、その論理不明確であり、非論理的ではあるが、それは、要するに、具体的危殆犯と抽象的危殆犯との区別につき、「所謂具体的危殆犯が公共危険の発生、すなわち、公衆の生命身体を侵害する結果を生ずる虞ある状態を発生させることを構成要件の内容としているのに対し、抽象的危殆犯においては公共危険の発生を構成要件の内容として特に規定していないがその構成要件の内容たる行為をすれば、常にそれだけで右危険ありとされるのである」と定義し、「抽象的危殆犯にあつては、如何なる行為が構成要件として規定されているのか法規自体から明らかでなくてはならず、単に抽象的に危険な行為或は危険発生の可能性ある行為とのみ規定し、解釈により可罰に値する行為の範囲を決定しなければならないような規定の仕方は許されないものといわねばならない」とし、この前提に立つて、鉄道営業法第二十五条「にいう「『危害ヲ醸スノ虞アル所為』とは、前記の如く、抽象的危険或は危険発生の可能性ある行為という意味ではなく、具体的に危険を発生させる虞れある行為をいうものと解するのが相当である」とし、「従つて、同条は、鉄道係員が職務上の義務に違背し又は義務を怠り、旅客又は公衆の生命、身体を侵害する結果を生ずる虞のある状態を発生させることにより成立する具体的危殆犯を規定したものである」というのである。
しかしながら、右の理由を以て鉄道営業法第二十五条を具体的危殆犯であるとするのは、概念的な、皮相な、誤つた解釈であり、同条が具体的危殆犯の規定であるか、抽象的危殆犯の規定であるかは先ず両者の概念及び区別について正確なる理解認識を前提としつつ、同条の規定につき形式的にも実質的にも十分なる検討の上、合理的に解釈決定せられねばならない。
(一) 先ず、立論の前提として、具体的危殆犯と抽象的危殆犯との概念及び区別について考えるに、具体的危殆犯は危険の発生を構成要件の内容として特別に規定しているものをいい、抽象的危殆犯は危険の発生を構成要件の内容として特別に規定しておらず、構成要件の内容たる行為をすれば、それだけで危険があるとされるものをいうのであることは、一般に異論のないところであり、これは両者の区別の形式的表現である。
原判決が、前掲の如く、具体的危殆犯は危険を発生させることを構成要件の内容としているのに対し、抽象的危殆犯は危険の発生を構成要件の内容として特に規定していないが、その構成要件の内容たる行為をすれば常にそれだけで危険ありとされるもの、としている点は、右の形式的定義として誤りではない。このことを換言すれば、具体的危殆犯の成立には危険が実際に発生したことを必要とするのに対し、抽象的危殆犯の成立には実際に危険の発生したことを必要としないのであり、両者は、危険が実際に発生したことを要するか否かという点において差異を生ずるのである。(この実際に発生した危険を「具体的危険」、実際に発生したか否かを問わず一般的抽象的にあるものとされる危険を「抽象的危険」と表現し、具体的危殆犯は具体的危険を要件とするもの、抽象的危殆犯は抽象的危険で足りるものという表現を以て両者の区別を説明する場合があるが、この場合において特に留意せられるべきは、後に第二点において述べる如く、具体的危殆犯において必要とされる危険の判断に関して用いられる「具体的危険」、「抽象的危険」の用語と混同することがあつてはならないことである。)
かように、具体的危殆犯と抽象的危殆犯とは、実際に危険の発生があつたことを要件とするか否かの差異として表われるのであるから、抽象的危殆犯については具体的事件の審理において実際に危険の発生があつたか否かを調べて犯罪の成否を判定する必要がないわけであり、換言すれば、抽象的危殆犯については、立法者は危険が実際にあつたか否かを一一調べるべき任務を裁判官に課すのではなく、通常危険である行為であれば実際の場合に偶々危険でなかつたときでも、立法者の意思は例外なく当然犯罪とする行為であるから、危険は立法者によつて推定されているのである。(推定といつても反証を許さない法的推定である意味において、これを原判決のいうように「擬制」といつてもよい。危険が立法理由になつているに過ぎないものであるといつてもよい。)即ち、立法者は、抽象的危殆犯における行為について、危険を予測し、予定し、推測しているのであり、その行為の性質上一般的に危険あるもの、一般的に危険性をもつている行為を抽象的危殆犯としているのである。危険が実際に発生したか否かを一一問題とする必要なく危険の発生が一般的に認められるような、性質上危険な行為であることに抽象的危殆犯の本質があるのである。
換言すれば、抽象的危殆犯における行為は、その行為の性質上一般的抽象的に危険あるものと認められるものであるから、その犯罪の成立につきその行為によつて実際に危険が発生したことを必要としないので、単に一定の作為又は不作為のみを構成要件として規定しているのである。ここに抽象的危殆犯における行為の実質があるのである。
(二) そこで、先ず、右に述べた如く、規定の形式の面からいえば、抽象的危殆犯は危険の発生を構成要件の内容として特別に規定していないものをいうのであるから、鉄道営業法第二十五条が果して構成要件の内容として危険の発生を特別に規定したものであるか否かを見るに、同条は決して危険の発生を特別に規定したものでないのである。
同条は「鉄道係員職務上ノ義務ニ違背シ又ハ職務ヲ怠リ旅客若ハ公衆ニ危害ヲ醸スノ虞アル所為アリタルトキハ」と規定している。そこで、危険の発生の要否について問題となるところは、「危害ヲ醸スノ虞アル所為」の点であるので、その意味を字句について検討するに、先ず、「危害」という語は、刑法の一部改正法によつて削除された第七十三条に用いられており、それが、身体生命に対する実害及び具体的危険を意味するものであることは通説であつたのであるし、社会一般の常識からいつてもそのような意味をもつものとされているといえよう。次に、「醸ス」の語は、穀類などを水に和して醗酵させて酒などを熟し成らしめて造ることに語源があり、それから転じて一般に用いられる場合は、「つくり成す」「構え成す」(「字源」)、「熟し成す」「でかす」「おこす)(「言海」)、「こしらえだす」「段々につくり出す」(「広辞苑」)という意味をもつのであつて、ある過程を通つて漸次的に熟成することをいい、直ちに惹起したり、直ちに発生させたりすることではない。従つて、これを法律的な「発生」という用語によつて表現するときは、それは単なる「発生」というよりも「危険の発生」という気持を含んだ語であるといえよう。
次に、「虞」の語は、「うれい」、「しんぱい」、「おもんばかり」(字源)、「しんぱい」(広辞苑)という意味であり法律的には「可能性」を意味することはいうまでもなかろう。そうして、「所為」は即ち「行為」である。そこで、「危害ヲ醸スノ虞アル所為」というのは、その字義を組み合わすれば、「実害又は具体的危険」の「危険を発生する」「可能性ある行為」ということになり、これを全体的に一貫した現代的法律文として読めば「法益侵害の危険を発生する可能性ある行為」ということになるのである。そうして、これが最も素直な読み方である。しかし、仮に「危害」を「実害」だけの意味にとつたとしても、「醸ス」は「危険の発生」であるから、「実害の危険を発生する可能性ある行為」ということになるし、また、仮に「醸ス」を単に「発生する」の意味にとつたとしても「実害又は具体的危険を発生する可能性ある行為」ということになり、何れにしても「危険を発生する可能性ある行為」ということにおいては同じことである。更に、仮に「危害」を「実害」だけの意味にとり、且つ「醸ス」を「発生する」というだけの意味にとる場合においては、「実害(法益侵害)を発生する可能性ある行為)」ということになる。この場合、「実害(法益侵害)を発生する可能性」とは、とりもなおさず「危険」に外ならないから、「実害(法益侵害)を発生する可能性ある行為」というのは「危険な行為」「危険性ある行為」ということである。従つて、これを「法益侵害の危険を発生する可能性」ある行為と読もうが、又は「法益侵害を発生する可能性」ある行為と読もうが、何れにしても、それは行為の「可能性」であつて、「法益侵害の発生」でもなければ、「法益侵害の危険の発生」でもないのであり、そういう「可能性」をもつている「行為」である。即ち、それは、「危険発生の可能性」乃至「危険」を内在せしめている行為、行為の性質上そういう行為を為せば危険であると認められるような行為の意味であつて、行為の性質を規定したもので、行為の結果を規定したものではないのである。「危険発生の可能性ある行為」乃至「危険な行為」を規定する場合は、行為の結果として「危険の発生」あることを規定する場合とは全く異なるのである。同条は、「……危害ヲ醸スノ虞アル行為アリタルトキハ」と規定しているのであつて「……虞アリタルトキハ」と規定しているのではない点が特に留意せられるべきであり。即ち、同条の「危害ヲ醸スノ虞アル」というのは「行為」に対する形容であり、「行為」の性質を規定した語であり、その「虞」ありや否やは行為者の作為不作為という「行為自体」に対する判断の問題となつているのであつて、行為の「結果」に対する判断の問題となつているのではないのである。
このことは、また、一般に所謂具体的危殆犯とされている刑法第百九条第二項、第百十条、第百十六条第二項、第百十七条後段、第百十八条第一項、第百二十条、第百二十二条、第百二十五条等の法文と比較するときは極めて明白なことである。これらの条項は、一定の行為を規定した後「因テ公共ノ危険ヲ生セシメタル者ハ」と規定したり、「但公共ノ危険ヲ生セサルトキハ之ヲ罰セス」と但書の形で規定したり、一定の行為の方法を規定した後「危険ヲ生セシメタル者ハ」と規定したり、その規定の形式は必ずしも一定してはいたいが、「危険ヲ生セシメタ」ることを必ず法文上明確に規定し、一定の行為の結果「危険の発生」があつたことを要件とすることを明らかにしているのであつて、危険を発生したか否かは行為の結果に対する判断の問題としており、行為自体に対する判断の問題としているのではないことは明らかであるのである。
要するに、鉄道営業法第二十五条の「危害ヲ醸スノ虞アル所為」とは、危険発生の可能性ある行為、乃至危険性を有する行為を表現するものであつて、危険の発生を意味するものではなく、従つて、同条は危険の発生を構成要件として規定するものでないことが考定されるので、同条は先ず、この点において、抽象的危殆犯であるということができる。
(三) 鉄道営業法第二十五条が「危害の発生」を構成要件とするものでないことは右によつて明らかになつたので、更に進んで、同条は、その構成要件の内容たる行為をすればそれだけで危険ありとされるものであるか、換言すれば、同条の規定する行為は、その行為の性質上一般的に危険あるものとされる行為、一般的に危険性ある行為であるか否かについて見るに、同条の規定する行為は正に右の如き行為と論定すべきものである。
それについて、先ず、同条の構成要件の内容たる行為は何かが考定され、次で、その行為は、実質的に見て、その性質上一般的に危険な行為、危険性ある行為で、その行為をすれば危険ありと認められるような性質の行為であるか否かを考定せねばならない。
1、先ず、同条の構成要件の内容たる行為は、鉄道係員の職務上の義務違背行為の中、特に旅客もしくは公衆に危害を醸す虞ある行為であり、換言すれば、旅客もしくは公衆の生命、身体に対する侵害の危険を発生する可能性のある、鉄道係員の職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為であると解せられるべきである。
このことは、同条の規定の文理からいつても、また、その立法の沿革、立法の趣旨などからいつても当然の解釈である。
(イ) 同条の後段に「危害ヲ醸スノ虞アル行為」とあるのは、既に前に考定したように、法益侵害の危険を発生する可能性ある行為、その危険性を有する行為と解せられるべきであるから、これを、同条の前段の「鉄道係員職務上ノ義務ニ違背シ又ハ職務ヲ怠リ」の文言と一貫して読めば、同条の後段の右の行為は同条の前段の行為を限定的に形容したものと解せられ、従つて同条の行為は、鉄道係員の職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為の中、旅客もしくは公衆に危害を醸す虞のある行為、換言すれば、旅客もしくは公衆の生命身体を侵害する危険の発生する可能性のある鉄道係員の職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為をいうものと解するのが相当である。
(ロ) 同条の立法の沿革、立法の趣旨などについて見るに、鉄道営業法は、その旧法たる「鉄道犯罪罰例」の後身であり、同法を補成して立法されたものであつて、鉄道営業法第二十五条は、その鉄道犯罪罰例第一条後段に「若シ其職掌怠惰軽忽ニヨリ鉄道旅客ノ危難トモナルヘキ取扱アルトキハ其事情ニ依リ五百円以下ノ罰金又ハ三月以下ノ懲役或ハ禁獄ニ処ス」とある条項に該当するものであり、これをやや平易な文言に直しただけのものであるから、規定の趣旨は本質的に変更されたものではないのである。ところで旧法の右条項は、「其職掌怠惰軽忽」即ち、職務上の義務違背又は職務懈怠行為の中で、「鉄道旅客ノ危難トモナルヘキ取扱」を構成要件とするものであり、そのような危険な職務上の義務違背又は職務懈怠の取扱行為を本質とするものである。鉄道営業法第二十五条は、この条項を継受したものであるから、かような立法の沿革から見ても、同条が危険な職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為を本質とする規定であることを考定することができるのである。
このことは、また、昭和三十五年六月九日第三十四回通常国会に提出された「鉄道営業法の一部を改正する法律案」の第二十五条の改正規定の案文からも同様に判断することができるのである。即ち、同案の第二十五条は現行法第二十五条を整理し改正しようとするものであるが、それは、「鉄道係員故ナク列車ノ運行又ハ旅客、手荷物若ハ運送品ノ取扱ニ関シ業務ヲ取扱ハス又ハ其ノ業務ニ付不当ナル取扱ヲ為シタルトキハ一年以下ノ懲役又ハ二万円以下ノ罰金ニ処ス」と規定しているのであつて、それが職務上の義務違反又は職務懈怠の業務の不取扱又は不当取扱の行為を規定し、同条の行為の本質がそこにあることを明記したものであることはいうまでもない。この規定は、現行鉄道営業法第二十五条の危険な行為をも包含しつつ更に広く一般的に職務上の不取扱及び不当取扱の行為を規定したものであり、郵便法第七十九条等の規定の例にならつて法文の上に職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為である趣旨を明らかにしたものである。
鉄道係員といつても、それは多数の職種を包含し、その職務上の義務違背行為、職務懈怠行為であつてその性質上旅客もしくは公衆の危害を醸す虞のないものもあるわけで、かような行為については、現行法上は、日本国有鉄道法第三十一条の懲戒の規定により懲戒処分の行政措置に委ね、職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為中右の危害を醸す虞のある行為即ち危険が一般的に認められる行為のみを、右懲戒処分とは別に、鉄道営業法第二十五条によつて処罰する趣旨と解せられるのであるが、改正法案においては、かような危険な行為を含めて一般的に職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為を処罰せんとする趣旨であるのである。
かように、現行法の立法の沿革及び改正立案の趣旨などに鑑みても、同条の行為は、職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為を本質とし、そのような行為の中、旅客もしくは公衆に危害を醸す虞のある行為、換言すれば、旅客もしくは公衆の生命、身体を侵害する危険の発生する可能性のある、鉄道係員の職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為をいうものと解するのが相当である。
(なお、鉄道当局者であつた喜安健次郎氏の鉄道営業法の解説書「改正鉄道営業法」(昭和五年刊)においても、鉄道営業法第二十五条を「鉄道係員の犯罪」中の「義務違背罪」なる名称を以て説明していることも、同条の本質を明らかにしたものとして、参考となるべきものであることを附言する。)
2、右によつて、鉄道営業法第二十五条の構成要件の内容たる行為は、旅客もしくは公衆の生命、身体を侵害する危険の発生する可能性のある、鉄道係員の職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為であることが論定せられたので、同条は、右の如き構成要件の内容たる行為をすればそれだけで危険ありとされるものであるか、換言すれば、右の行為は、その性質上一般的に危険あるものとされる行為、一般的に危険性のある行為であるか否かを見るに、同条の行為は正にそのような行為であるということができるのである。
このことは、鉄道事業の性質から当然に考定することができるのである。即ち、高速度交通機関である列車の運行には本質的に事故発生の危険が潜在的に随伴していることは多言を要しないところであるが、それにも拘わらずなおその運行が許容されているのは、鉄道が事故発生の危険を防止するために、その組織、機構、設備及び運営について、人的物的に、万全の措置を採つていることを前提としているのである。列車の運行に直接的に関係ある職務に従事する鉄道係員が、その定められた職務を尽すことは、事故発生の危険を防止するための措置の一環として特に重要なものであることは改めていうまでもないことであり、一定の服務規律を遵守励行し、統括機関の業務上の命令に従い、その職務上の義務を確実につくすことは、事故発生の危険を防止するために正に必要欠くべからざることである。従つて、若し、かような職務に従事するその鉄道係員がその職務上の義務に違背し又は職務を懈怠するときは、事故発生の危険が発生することは当然の事態であるといわねばならない。鉄道係員には多数の職種があるが、その職種の中、列車の運行に直接関係ある職種の職務は事故発生の危険防止に直接関係のある職務であり、またそのような職種の中でも特に事故発生の危険防止そのものを職務とする職種(例えば、本件の踏切警手の如きものは正にこれである)があり、これらの職務に従事する鉄道係員が職務上の義務に違背し又は職務を懈怠するときは、そこに直ちに事故発生の危険を生ずるものといわねばならない。鉄道営業法第二十五条が、危険の発生を構成要件とせず、鉄道係員の旅客もしくは公衆に危害を釀す虞のある職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為を構成要件として規定したものと解すべき実質的な理由がここにあるのであり、これを逆にいうならば、同条の構成要件の内容たる行為を、鉄道係員の右の如き職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為と解するときは、かような行為はその性質上一般的に危険あるものとされる行為であり、同条は、かような行為をすればそれだけで危険ありとされるものとして規定されたものであるということができる。
以上に論じたところによつて明らかになつたように、鉄道営業法は「危険の発生」を構成要件とするものではないとともに、同条の構成要件の内容たる行為はその性質上一般に危険あるものとされ、その行為をすればそれだけで危険ありとされるものであるから、正に抽象的危殆犯である。従つて、これを具体的危殆犯と為した原判決の解釈は誤りであるといわねばならない。
(四) 原判決が、鉄道営業法第二十五条を抽象的危殆犯ではなく具体的危殆犯と解すべきであるとする理由は、要するに、同条の「危害ヲ醸スノ虞アル行為」を抽象的に危険な行為或は危険発生の可能性ある行為という意味に解するときは、構成要件として規定された行為が法規自体から明らかでなく、解釈により可罰に値する行為の範囲を決定しなければならなくなり、罪刑法定主義に反することになるから、というだけのことである。
しかしながら、この点は、前述のところによつて理由のないことは概ね明らかになつていると思われるが、なおここに取りまとめて考察して見よう。
先ず、同条の行為の主体は鉄道係員に限定されている。従つて行為の範囲もそれによつて一次的に限定される。また、危険発生の可能性ある職務上の義務違背行為又は義務懈怠行為が問題となるのであるから、その鉄道係員の職種は当然危険発生と関係ある職種ということになり、行為の主体はそのような職種の鉄道係員に限定されるのである。
行為の内容は、前述の如く、職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為中の危険発生の可能性ある行為であるから、職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為一般をすべて包含するのではなく、そのような行為の中危険発生の可能性ある行為に限定されると共に、単に危険発生の可能性ある行為というのではなく、職務上の義務違背性又は職務懈怠性あるものに限定されている。単に危険発生の可能性ある行為とのみ規定される場合であれば、構成要件として不明確ともいえようが、職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為の中の危険発生の可能性ある行為というのであり、その職務及び職務上の義務は特定しており、その義務違背行為又は職種懈怠行為は自らまた特定しているのであるから、その行為の構成要件が不明確であるということはできない。如何なる行為が危険発生の可能性があり、危険であるかは、客観的経験則によつて容易に判断できるのであり、殊に鉄道係員は一般にその職務の性質上列車等の運転に危険のおそれがあるか否かを判断して安全と認められる処置をとるべき義務を規定した昭和二十六年六月二十八日日本国有鉄道総裁達第三百七号安全の確保に関する規程第十七条は(後掲)、鉄道係員が危険発生の可能性について判断することができることを前提としたものであることはいうまでもないことで、一般的にいつて鉄道係員にとつてはその職場において如何なる行為が危険発生の可能性ある行為であるかは自ら明らかなことであろうし、特に危険発生防止のための職務に従事する鉄道係員の場合にあつては、その職務上の義務違背又は職務懈怠の行為を為せば、それが危険であり、危険発生の可能性ある行為であることは自明のことであるわけである。
同条の行為の例として、従来鉄道当局者の解説書に挙げられるところは、客車の横戸を開いた儘運転する行為、道路に接する線路の柵垣破損の修繕を怠る行為、旅客列車に火薬類搭載の車輌を連結する行為、線路又は車輌器具の損傷があるのに列車を運転する行為、踏切道の閉鎖を怠る行為等各種の態様の行為であるが、具体的にはなお各種の行為の態様があるわけで、これらを法文に具体的に表現することは立法技術上困難であるし、その必要もないので概括的に表現した法文になつているに過ぎないのである。殊に、鉄道営業法は明治三十三年に制定施行せられたものであるから、立法の形式としては古いものであることやむを得ないところであるが、しかし、それだからとて、構成要件が不明確であるということはできない。立法の趣旨と規定の実体とを考えるならば、十分に合理的な解釈を為すことができる規定であるのである。
原判決は、同条を具体的危殆犯と解するならばその構成要件は明確性において何ら欠けるところはない、とするのであるが、同条を具体的危殆犯とする場合には、その構成要件上の行為は単に職務上の義務違背行為又は職務懈怠行為ということになり、危険の発生という結果を要件とするとはいうものの、行為としては、抽象的危殆犯と解する場合よりもむしろ不明確となるといわねばならない。
要するに、鉄道営業法第二十五条を抽象的危殆犯の規定と解するには構成要件とされる行為が明らかでないということを理由として、同条を具体的危殆犯の規定であるとする原判決の見解は理由がないものといわねばならない。
(五) 以上に論じたところにより、鉄道営業法第二十五条は具体的危殆犯の規定と解せられるべきではなく、抽象的危殆犯の規定と解するのが相当であるから、同条をかように抽象的危殆犯と解するときは、本件踏切警手が所属上司の許可を受けることなく踏切の職場から離脱した行為は正に同条の構成要件に該当するものといわねばならない。
踏切警手の職務は、昭和三年十二月二十七日達第一〇三号保線区従事員職制及び服務規程によれば、踏切警手は踏切道の看守に従事するものとされ、第七十三条は警手は列車又は車輌通過前踏切道を閉じて之を看守し其の通過後速かに之を開くべしと規定し、第七十六条は警手は無用の者をして踏切道より線路内に立入らしむべからず、と規定しているところによつて明らかであるように旅客公衆の危険防止そのものである。かかる職務に従事する踏切警手が上司の許可なく職場を離脱することは、既にそれ自体一般的に危険発生の可能性ある行為であり、同条の旅客もしくは公衆に危害を醸す虞ある行為である。国鉄当局者側において一時列車を停止せしめ、あるいは踏切警手の職場離脱を踏切警報機又は自動踏切しや断機の故障による使用不能に準じて運転取扱心得(昭和二十三年八月五日日本国有鉄道総裁達第四百十四号)第五百六十二条の四を準用して列車に注意運転を指示したことは踏切警手の職場離脱を一般的に危険発生の可能性ある行為と見たが故にほかならぬ。社会通念に照しても踏切警手の職場離脱が踏切警報機自動しや断機の故障による使用不能と同程度乃至それ以上に一般的に危険発生の可能性あることは明白である。
しかるに、原判決は、前述の如く鉄道営業法第二十五条を具体的危殆犯の規定であると誤解した結果、本件踏切警手の職場離脱行為を同条の構成要件に該当しないものと誤解し、被告人等を無罪としたものであつて、右法令の解釈適用の誤は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れないものと信ずる。
第二、原判決は、鉄道営業法第二十五条は危険の発生を構成要件とする具体的危殆犯の規定であるとするが、仮に原判決のいうが如く同条をそのような具体的危殆犯の規定と解する場合においても、その具体的危殆犯の要件とする「危険の発生」ということの解釈適用を誤つたものである。
即ち、原判決は、具体的危殆犯の成立に必要とされる「危険」は抽象的に判断せられる危険であるに拘らず、これを現実、具体的な危険であると解釈し、危険の発生なしとした点において同条の解釈適用を誤り、その誤が判決に影響を及ぼすことが明らかである。
(一) 先ず、一般に具体的危殆犯とされる刑法上の規定の、「危険」についての判例を見るに、
刑法第百十条の放火罪について、明治四十四年四月二十四日の大審院判決(大審刑録一七輯六五五頁、刑抄録四八巻四九四五頁)は、「所謂公共の危険とは其放火行為が同条所定の物件に付発生せしめたる実害を謂ふにあらずして、其放火行為によりて一般不特定の多数人をして前掲第百八条及第百九条の物件に延焼する結果を発生すべき虞ありと思料せしむるに相当する状態を指称するものに外ならず、故に苟くも理性の判断により叙上の虞ありと認むべき場合に在ては縦令其当時物理上結果の発生を虞るべき理由なかりしとするも之がために其判断の当否を論難するを容さず。」と判示し、刑法第百十六条の失火罪について、大正五年九月十八日の大審院判決(大審刑録二二輯一三六一頁、刑抄録六七巻八九〇〇頁)は、「刑法第百十六条第二項に所謂公共の危険を生ぜしめたるとは、火を失して自己の所有に係る第百九条の物又は自己若くは他人の所有に属する第百十条の物を焼燬し、因て第百八条及び第百九条の物に延焼せんとし、其他一般不定の多数人をして生命身体及び財産に対して危害を感ぜしむるに付き相当の理由を有する状態を発生したることを謂ふものとす。」と判示し、また、刑法第百二十五条の電車汽車往来危険罪について、大正九年二月二日の大審院判例(大審刑集二六輯一七頁、刑抄録八四巻一〇六〇八頁)は、「刑法第百二十五条に定むる往来危険罪は、実害罪に非ざるを以て苟くも犯人の行為に依り汽車、電車又は艦船を顛覆、脱線、衝突若くは覆没等の災害に遭遇すべき虞れある状態を生ぜしめたる場合に成立するものにして、具体的に実害を生じたることを必要とせず、原判決は被告一三が判示野上軽便鉄道の軌条上に長さ約四寸五分、幅約三寸、厚約一寸五分の石を置き又被告義兼が同鉄道重根駅構内の待避線と「トングレール」の突線路に幅三寸余、厚一、二寸余、長さ四寸余の粟石一箇を挿入し、孰れも電車往来の危険を生ぜしめたる事実を判示し、之を認むるに足る証拠を挙示せるを以て所論の如く危険の程度模様等の具体的事実の判示をまたず、被告等の行為が前示法条の罪を構成すべきこと明らかなりし故に、もしその後に至り具体的に危険発生せず電車は実害を被ざりし所論の如き事実ありとするも之により本件犯罪の成否に影響を及ぼすものに非ず。」と判示し、昭和二年四月十二日の大審院判決(大審刑集六巻一三八頁)及び昭和十三年十一月二十四日の大審院判決(法律新聞四三五四号一二頁)もこれと同趣旨の判示を為し、大正十一年六月十四日の大審院判決(大審刑集一巻三四一頁)は、「刑法第百二十五条第一項に所謂往来の危険を生ぜしむるとは、鉄道又は其の標識の損壊又は其の他の方法に依り汽車又は電車の衝突顛覆脱線等の如き実害を発生すべき虞ある状況を作為するの謂にして、所論の如き危険の結果の発生したることを必要とせず、原判決認定事実に拠れば被告は電車の往来の危険を生ずることの認識を以て電車線路の両軌条間若は軌条上に酒空樽又は小石若干及重量一貫目の石を積載したるものにして乃ち該軌道を通過すべき電車に如上実害の発生すべき虞を生ぜしめたるものと認むるに足るを以て未だ電車が右障害物に衝突し又は将に衝突せんとするの状態に達せざりしとするも其の行為は前示法条の犯罪を構成するを防げず。」と判示し、大正十一年十二月一日の大審院判決(大審刑集一巻七二一頁)は、「刑法第百二十五条に所謂汽車又は電車の往来に危険を生ぜしむる行為とは普通の観念において汽車又は電車の完全なる往来を妨害すべき結果を発生せしむべき可能性ありと認むべき行為を指称するものにして、必然的又は蓋然的に危害を生ぜしむべき行為たることを要せず、故に原判示踏切板と軌道との間にある電車の車輪の通過する溝に小石一個を入れたる被告人の行為の如きは、必然又は蓋然に電車の往来に危害を発生せしむべきものと断定するを得ざるべしと雖………諸般の事情に因り電車をして脱線顛覆又は進行の障碍その他の事変を惹起せしむる虞れなしと言うべからず、然れば被告人の判示行為は之を普通の観念に訴え絶対的に電車の完全なる往来を妨害する結果を発生せしむべき可能性を有せずと論ずるは当らず。」と判示し、昭和九年十二月二十一日の大審院判決(法律新聞三七九六号一一頁)は、「刑法第百二十五条に所謂汽車又は電車の往来の危険を生ぜしむる行為とは普通の観念に於て汽車又は電車の安全なる往来を妨害すべき結果を発生せしむべき可能性ありと認むべき行為を指称するものにして必然的又は蓋然的に危害を生ぜしむべき行為たることを要するものに非ざるが故に、縦令本件被告人の行為の如きが必然又は当然に汽車の往来に危害を発生せしむべきものと断定することを得ずとするも、所論原判示鑑定の結果に依れば或は杉板破片叺断片が機関車腹部に突入又は巻込まれて機関車に故障を生じ急停車を来す虞なしとせず、此の場合乗務員及び乗客に間接的に危険を生じ因て汽車の往来に危険を生ぜしむる虞なしと云ふべからず、然らば被告人の判示行為は汽車の安全なる往来を妨害する結果を発生せしむべき可能性を有すること明なるを以て原判決が叙上の如き証拠に依り判示事実を認め被告人の行為を刑法第百二十五条の罪に問擬処断したるは相当なり。」と判示し、昭和二十六年十月三十日の東京高等裁判所判決(裁判所時報八〇号五頁)は、「刑法第百二十五条の電車往来危険罪は、電車の衝突、脱線、顛覆等の事故を生ずべき虞れのある状態を作為することにより成立し、必然的又は蓋然的に危険の発生すべき場合であることを要しない。」と判示し、昭和三十三年六月二十三日の東京高等裁判所判決(高裁刑事判例集一一巻八号四三七頁)は、「刑法第百二十五条の電車往来危険罪は、何らかの方法により、電車の衝突、脱線、顛覆等安全な電車の往来を妨げるおそれある状態を作為することによつて成立するものであり、その事故発生が必然的、蓋然的たることを要せず、もとより実害を生ずることは必要としないものと解すべき」であり、「また刑法第百二十五条の危険とは前記のように、電車の安全な往来を妨げるおそれある状態、即ち顛覆、衝突等の事故発生の可能性ある状態をいうのであつて、その危険の態様、程度を問わないものと解すべきである。」と判示しているのである。
これらの判例によれば、具体的危殆犯における「危険」というのは、「法益侵害の結果を発生すべき虞ある状態」であり、「法益侵害の結果を発生せしむべき可能性ありと認むべき状態」であり、「危険の発生」というのは、そのような状態を「生ぜしめること」である。危険についての判断標準を含めた判示でいえば、「結果を発生すべき虞があると思料せしめるに相当する状態を生ぜしめた場合」であり、「一般不定の多数人をして危害を感ぜしめるに相当の理由を有する状態を発生したこと」であり、「普通の観念において」「結果を発生せしむべき状態」を生じさせれば足り、「必然的又は蓋然的に危害の発生すべき場合であることを要しない」のであり、「一般不特定の多数人をして、結果を発生すべき虞ありと思料せしむるに相当する状態」が「危険」で、「苟も理性の判断により」「その虞ありと認むべき場合にはたとえ当時物理上結果の発生を虞るべき理由がなかつたとしても」「危険」と判断せられるべきであるとしているのである。そうして、「将に実害を発生せんとする状態に達するというような切迫したものであることを要せず」、「間接的な危険の発生で足り」、「具体的に危険の発生することを要しない」ともしているのである。
即ち、判例は、具体的危殆犯における危険は、一般的抽象的に判断せられる危険であつて、現実的、物理的、客観的な危険であることを要しないこと明らかにしているのである。合理的に考えて、即ち、一般人抽象人を基礎として考えて、法益侵害の危険が感ぜられれば危険ありとし、必ずしも現実に危険を感じた状態を生じたことを必要としないことを明らかにしているのである。具体的危殆犯であつても、その危険判断は抽象的であるべきことが判例となつているのである。この判例の見解は正当であり、当然であるとせねばならない。
(二) そもそも具体的危殆犯において要件とされる「危険」という概念は法益侵害の可能性に対する合理的判断である。従つて、抽象的に危険を感ぜしめるについて相当の理由ある状態を生ずるときは、現実にその危険を感じた事実状態がなくとも「危険」の成立があるのである。具体的な事実状態を経験法則に照らして判断して法益侵害の可能性があると合理的に認められる場合に、「危険」の成立があるのである。しかし、また、具体的に現実に危険を感じた事実状態があるときは、抽象的に判断せられる危険がない場合においても、「危険」の成立のあることはいうまでもない。要するに、抽象的に判断せられる危険がある場合においては、現実、具体的な危険がない場合においても、危険の成立を認めるべきであるし、反対に、抽象的に判断せられる危険がなくても、特に事情上現実具体的に危険がある場合においても、また、危険の成立があるとせねばならないのである。
(三) 右に述べたところによつて明らかであるように、具体的危殆犯は「危険の発生」を要件とするといつても、その「危険」は現実具体的な危険ではなく、抽象的に判断せられる危険である。然るにかかわらず、原判決は、その「危険」を現実、具体的な危険と解釈するの誤りを犯しているのである。換言すれば、原判決は、具体的危殆犯においては、危険の発生を要件とするという意味における「具体的危険」ということと、危険判断が具体的か抽象的かという危険判断の標準の問題とを混同し、具体的危殆犯という名に眩惑されて具体的危殆犯における危険も現実、具体的な危険でなければならないが如く誤解したのである。
具体的危殆犯と抽象的危殆犯とを区別する場合において、危険が実際に発生したことを要するか否かが問題とされ、実際に発生した危険を「具体的危険」といい、具体的危殆犯はその「具体的危険」を要件とするといい、実際に発生したか否かを問わず一般的抽象的にあるものとされる危険を「抽象的危険」といい、抽象的危殆犯はその「抽象的危険」で足りる、という表現を以て説かれる場合があると共に、他面において、具体的危殆犯において必要とされる危険の存否を考える場合において、抽象的に判断せられる危険がある場合を「抽象的危険」といい、現実、具体的な危険を「具体的危険」という表現を以て説かれる場合があるため、原判決は、具体的危殆犯と抽象的危殆犯との区別において問題となる「具体的危険」と具体的危殆犯の要件たる危険の判断において問題となる「具体的危険」とを混同し、具体的危殆犯において要件とされる危険は現実、具体的なものであることを要すると誤解したわけであるが、この場合の危険は、右に述べた如く、必然的、蓋然的なものであることも、現実、具体的なものであることも必要ではなく、抽象的に法益侵害の結果発生の可能性ありと認められるものであれば足りるのである。
要するに、原判決は、具体的危殆犯の成立に必要とされる「危険」についての誤解に基き、鉄道営業法第二十五条の成立に必要とされる「危険の発生」の解釈適用を誤つたものである。
具体的危殆犯における危険についての正しい見解に基いて同条を解釈するならば、仮に同条を具体的危殆犯の規定であるとしても、踏切警手が所属上司の許可を受けることなく踏切の職場から離脱する行為は、危険の発生あるものとして、同条の構成要件に該当するものといわねばならないのである。
第三、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある。
原判決は、鉄道営業法第二十五条を具体的危殆犯の規定であるとするのであるが、仮に原判決のいうが如く同条を解する場合においても、本件における踏切警手の職場離脱に「危険発生の虞」はなかつたとする原判決の事実認定は誤りであるといわねばならない。
原判決は、「踏切において旅客又は公衆の生命、身体に侵害が生ずるのは、踏切道を通過する列車と踏切道を通行しようとする人又は車馬との衝突、或はこれを避譲せんとしてなす列車又は車馬の急停車による衝激ないしは他の物との衝突等の事故によるものである。従つて、踏切警手が職務上の義務に違背して職場から離脱する行為が旅客又は公衆の生命、身体を侵害する虞ある状態を発生させたといい得るためには、列車が前記の如き事故を発生させる虞のある運転方法によつて当該踏切を通過することが予測されなければならず、列車の通過しないことが明らかな場合、或は踏切警手が勤務していなくても危険を発生させる虞のないような運転方法によつて通過することが明らかな場合には、踏切警手が職場から離脱したことによつては直ちに旅客又は公衆の生命、身体を侵害する虞ある状態を発生させたものということはできない。」と前提し、新津保線区長江川洋は、昭和三十二年七月十五日午前九時十分頃、被告人遠藤より、電話で踏切警手の職場離脱の通告を受け、直ちに、踏切警手の代務の業務命令を出したが拒否されたので、同線路分区長近藤泰吾に対し、非常措置として本件七ケ所の踏切を通過する列車を停止させる手配をとり、第二一三列車は一応燕駅に停車させ、北三条駅助役浅賀蔵三は、その後東三条駅に右踏切の助勤者の手配を要請したが拒絶され、前記事情の報告を受けた新潟鉄道管理局においては、協議の結果、運転取扱心得(昭和二十三年八月五日、日本国有鉄道総裁達第四百十四号)第五百六十二条の四を準用して、所謂注意運転の運行指令を発し、「列車を注意運転により運行させよ。特に危険な箇所は誘導者の誘導により運転せよ」との指令が伝達されたとし、かくて、「第二一三列車及び第二一四列車が前記各踏切を通過した際における運転方法は、前認定の通りであつて、第二一三列車は第一県道、田島両踏切を、第二一四列車は下田島、田島、第一県道の三踏切を通過するに当り、それぞれ踏切道の手前で一旦停止し、誘導者たる田辺助役が踏切道に立つて通行人を整理した上列車を誘導し、その誘導に従い時速約五粁の低速で通過したのであるから、いずれも踏切道を通行する人又は車馬との衝突等の危険発生の虞はなかつたものと認められる。また、第二一三列車は瑞雲橋、泉薬寺、居島、旭町、下田島の五踏切を通過するに当つては、踏切道の手前で停止することなく進行したが、いずれも踏切道にさしかかるかなり前から汽笛を吹鳴して踏切道を通行しようとする人又は車馬に対し列車の近付いたことを知らせるとともに、田辺助役が列車最前部より身を乗り出して通行人の有無ならびにその動静を注視し、危急の場合はいつでも田中運転手に停車の合図をし得るよう態勢をとり、田中運転手も田辺助役の誘導に従いながらも、自ら踏切道附近を注視しつつ列車を運転し、危急の場合は直ちに停車し得るよう時速約十粁で通過し、右各踏切道の見透しも前記の如く踏切道の手前約三米ないし約五米の箇所に至れば踏切道附近の道路を見透すことができたのであるから、いずれも危険発生の虞はなかつたものである。」とし、「被告人等が中沢幸吉ほか六名の踏切警手を職務上の義務に違背して職場から離脱させたことは、鉄道営業法第二十五条に所謂旅客又は公衆に危害を醸すの虞ある所為ありたるときに当らない。」と認定している。
(一) しかしながら、前に第二点において述べた如く、具体的危殆犯においてその成立に必要とされる危険は、必然的、蓋然的なものである必要はなく、現実、具体的なもの、切迫したものである必要はなく、一般的に抽象的判断によつて法益侵害の結果発生の可能性ありと認められるものであれば足りる抽象的なものであるから、この見地において、原判決認定の職場離脱の事実を見るならば、正に危険が存在したものと認定せられねばならないのである。
1、前に述べた如く、鉄道の運行は本質的に事故発生の危険を潜在させており、その危険を万全に防止するために人的物的に組織機構が整えられており、特に列車運行に直接関係ある職場における鉄道係員はその職務上の義務を遵守励行することが危険の発生を防止するため重大な要件となるものであり、若し、そのような職務に従事している鉄道係員がその職務上の義務に違背し又は職務を懈怠するときは、事故発生の危険が直ちに認められることはむしろ自明のことであるといわねばならない。本件の如き、踏切警手の職務は正に右の如き職務であり、前掲の保線区従事員職制及び服務規程によつて明らかであるように、その職務は危険発生の防止そのものであるから、踏切警手がその職務上の義務に違背して職場を離脱するが如き行為あるときは、危険ありと認められるべきことは多言を要しないところである。このことは、昭和三十三年六月二十三日東京高等裁判所判決(高裁刑事判例集一一巻八号四三七頁)が、刑法第百二十五条の電車往来危険罪について、「国鉄のような高速度交通機関の大企業においては、その企業自体の性質上常にある程度の事故発生の危険を伴うものであるから、その企業の運営については、運輸事業としての本来の目的を可及的効果的に達成する方策を講ずる外に、事業に伴う危険をでき得る限り未然に防止するため、一面にはすべての設備、施設、機関についてあらゆる危険防止の方法を講じ、運行する列車、電車については正確、詳密な運転計画を樹立して実施し、その計画を関係従業者に周知徹底させ、なお従業者に対しては各自の職務遂行に過誤が生じないようにするため、十分な訓練と服務規律遵守を励行させることを要すると同時に、他面にはこれらの施設、設備、機関、従業者のすべてを統括機関において掌握し、全企業がその機関の統制の下に完全な秩序と調和とを保ち、全一体の有機的連繋をもつてその事業の運営を行つていることが明瞭であり、かような組織と秩序と運営があつてはじめて危険を伴うこの企業が正当な行為として国家的社会的に承認されて違法性を阻却するものというべきである。それ故たまたまその企業体の一部の従業者が、列車、電車の運行に関する統括機関の統制に背き、業務命令に反し、定められた運転計画に従わず、ほしいままに電車を運行させるという如き所為に出ることは、単に企業体内部の形式的規律違反たるに止まらず、全一体たる企業の有機的連繋と秩序とを破壊し、定められた運転計画をみだし、列車、電車の運行をそごさせて混乱を生ぜしめるのみならず、企業の他の作業部門、例えば、踏切、電力、駅構内の作業等にも混乱を生ぜしめ、そして、これらの各方面の混乱が高速度交通機関たる列車、電車の事故発生の原因となり得るものといわなければならない。」としている判示の趣旨によつても、十分に考定されるところである。
2、原判決は、新津保線区長が当日踏切警手の職場離脱につき事前に電話通告を受け、当局側では踏切警手が職場を離脱する七箇所の踏切を通過すべき列車を停止する手配をとり、次いで、運転取扱心得第五百六十二条の四を準用して注意運転の方法により踏切道を通過するよう指示し、第二一三、第二一四の両列車は右指示に従つてこれら踏切道を通過した事実を以て、危険発生の虞はなかつたものとするのであるが、当局が踏切警手の職場離脱の事態に対処して、代務者を要請して拒否され、列車を停止したり、注意運転の方法によつて運行させたりしたことは、事故の発生なからしめるための緊急的応急措置であり、踏切警手の職場離脱によつて事故発生の虞がある状態が発生したので、それを未然に防止するためにとつた非常措置であつて、危険があつたからこそ採られた措置であり、危険がなかつたならばかような措置は不必要であつたわけである。即ち、原判決も認めているように、本件において当局の採つた措置は、昭和二十六年六月二十八日日本国有鉄道総裁達第三百七号安全の確保に関する規程第十七条の「列車、自動車の運転並びに船舶の運航に危険のおそれがあるときは、従事員は一致協力して危険をさける手段をとらなければならない。万一正規の手配によつて危険をさけるいとまのないときは、最も安全と認められる処置をとらなければならない。直ちに列車又は自動車をとめるか、又はとめさせる手配をとることが多くの場合危険をさけるのに最もよい方法である。」とある規定に則つて採られた事故の危険を避けるための応急措置であつて、当局がかような措置を採つたことは、本件踏切警手の職場離脱が危険を生ぜしめた証左に外ならない。当局が事故発生防止の努力を為し、措置を採らねばならなかつた事態を惹起したこと自体が危険の発生を認むるに十分な事実であり、旅客公衆に危害を醸すの虞があつたものといわねばならない。原判決は、既に、この点において事実を誤認しているのである。
(二) 原判決は、踏切警手職場離脱行為が旅客又は公衆の生命、身体を侵害する虞ある状態を発生させたといい得るためには、踏切道を通過する列車と踏切道を通行しようとする人又は車馬との衝突或はこれを避譲せんとしてなす列車又は車馬の急停車による衝激ないしは他の物との衝突等の事故を発生させる虞のある運転方法によつて列車が当該踏切を通過することが予測されなければならないとし、危険を列車の踏切通過による事故に限定してその危険がなかつたと認定している。
しかし、踏切警手の職務は前記保線区従事員職制及び服務規程にも明らかなように単に踏切道通過の列車について踏切道を開閉することのみではなく、無用の者をして踏切道より線路内に立入らしめないよう踏切を看守することも含んでいる。後者は無用の者が踏切道より線路内に立入ることにより、線路の荒廃を来たすことを防止するとともに、踏切附近は勿論その他の線路内において立入者が列車に触れる危険を防ぎ、或は立入者による列車妨害を防ぐためのものというべく、従つて、踏切警手が職場を離脱しても列車さえ前記安全の確保に関する規定の趣旨に従い、運転取扱心得第五百六十二条の四に準じて踏切道を通過すれば危険性はないものと、危険を列車の踏切通過による事故に限定して判断し、踏切警手の職場離脱のため無用者の線路内立入を防ぐ手段が講ぜられず、ために発生すべき危険の有無については、何等これを考慮せずして危険性なしとした点においても事実を誤認しているのである。
(三) 原判決は、前記両列車が踏切警手の職場離脱した踏切を通過する際、注意運転をしたことを以て危険の発生はなかつたものとするのであるが、注意運転は前述の如く事故発生防止のため、即ち既に発生している危険を避けるために採られた措置であり、また、その注意運転によつて現実には事故は発生しなかつたというに止まり、前記両列車がその踏切を通過する際の具体的状況は、人車の通行状況及びその際における危険感得の状況から見て、単に抽象的に判断した危険の発生があつたに止まらず、更に現実、具体的に危険の発生があつたものとも認められるべき状況であつたのである。このことは、次の証拠によつて十分に認定することができるのである。
即ち、北三条駅から東三条駅に向う第二一三列車が瑞雲橋、泉薬寺、旭町、第一県道、田島及び下田島の各踏切を通過せんとした際における人車の通行状況につき、証人田中保次の証人尋問調書中、同人の供述として、「通行人(瑞雲橋踏切)はいかがでしたか」「通行人は二、三人位だつたんでしようかな、はつきり覚えていませんが」「どつち側にいたか記憶ありますか」「左側じやなかつたかと思うんですが」「何人位、二、三人?」「はい」「待つておりましたか、汽車の通行を気づかずにいるような様子でしたか」「いいえ、待つておりました」(以上記録一〇六五丁裏及び一〇六六丁表)「通行人(泉薬寺踏切)はいかがでしたか」「それははつきり覚えていません」「それから通行人が両側に三、四人位いたとこういうふうに言つていらつしやいますけれども思い出されますか」「いたと思いますね」(以上記録一〇六七丁裏及び一〇六八丁表)「通行人(旭町踏切)がどうだつたか記憶しておりますか」「通行人はちよつと今わかりませんな」「小型自動車が一台待つておつたというような記憶がありませんか」「それは右側だつたですかね、右側のほうに立つていたように思い出します」「そのほかに通行人がどの位いたか記憶ありませんか、歩行者ですね」「思い出せないですね」「十人位いたようにあの当時申されておられたようですけれども、今では記憶ないですか」「記憶ありませんね」(以上記録一〇八〇丁表、裏)「通行人(第一県道踏切)はどの位いたかわかりますか」「あそこははつきりわかりませんが」「大体あそこは多いところなんじやないですか」「はあまあいくらかいたと思いますけれども、はつきり何人いたかというのは覚えていません」「そこまで一旦停車しなかつたのに第一県道では特に一旦停車したのはどういう理由でしよう」「あそこは見透しも悪いし交通量が多いためだと思います、そのために止つたんですね」(以上記録一〇八二丁表、裏)「通行人(田島踏切)はどの位いたかわかりますか」「あそこは一人か二人位いたでしようか、よく記憶しておりません」「通行人が少なかつたけれども一旦停車したというのは」「見透しが全然きかないですから、左右の」「通行人(下田島踏切)の状況はどの位であつたかわかりますか」「はつきりわかりません」「自転車乗りがいたかどうか記憶出てきませんか」「記憶ないですが、わかりませんね」「両側に五、六人位いたんじやなかつたでしようか」「はつきり覚えていません」(以上記録一〇八四丁乃至一〇八六丁表)旨の供述記載、同列車が第一県道踏切に差しかかつた時、同踏切を自転車乗りが通過しようとした際の危険な状況につき、証人馬場徳毅智の証人尋問調書(記録一〇二七丁裏乃至一〇二九丁裏)中、同人の供述として「北三条のほうから列車が来たかどうか」「来ました」「通行人はどうでしたか」「通行人は割合に不足でした」「どの位でしたか」「実際汽車がとまる間に私たちがとめたのは二、三人でした」「あなたがとめた二、三人」「はい」「歩いてる人ですか、自転車に乗つた人ですか」「自転車の人です」「どういうふうにしてとめましたか」「汽車来たからとまれ、あぶないからとまれ」「声をかけてとめたのですか」「はあ」「汽車はどういうふうにして踏切の所へ来ましたか、通過しましたか」「あの踏切手前でね、二間位手前でとまつて赤帽かぶつた人が降りて中央に立つてそしてずつていきました」「遮断機はどうなつていましたか」「遮断機は上げたままになつてました」旨の供述記載、東三条駅から北三条駅に向う第二一四列車が下田島、田島、第一県道の各踏切を通過せんとした際における人車の通行状況につき、証人浦沢芳彦の証人尋問書中、同人の供述として「その下田島ではどういう措置をあなたなり、田辺さんがどういう措置を講じて通過して行きましたか」「踏切の手前で一旦止まりました」「どのくらい手前ですか」「約一メーターか二メーターぐらい手前だと思います、渡り板にかかる前ですね」「とまつて」「止まつて田辺さんが確か降りてね、それでまあ通行人を整理しまして、整理してといつてもまあ大して大勢もいませんしね」「どのくらいおりましたか」「下田島では二、三人かそんなものでなかつたでしようか、よく覚えてませんけれども」(以上記録一二〇八丁表、裏)「その次が田島踏切ですか」「そうです」「通行人も何人かおつたですか」「通行人というよりもあれは何でしようかね、通行人かもしれませんけれども二、三人ぐらいのものじやないでしようか、よく覚えておりませんけれども確かそのようなものです」(以上記録一二〇九丁裏及び一二一〇丁表)「第一県道ですね、次は」「そうです」「ここは交通量が多い所らしいですね」「多いですね」「通行人はどのくらいおりましたか」「何人くらいと言われてもあれですけれども、バスはいたかいないか、トラックとか、オートバイとかそういつたものも大分おつたように思います」「バスとかトラック」「バスはどうかわかりませんけれどもトラックはおりましたですね」「それからどんなものですか」「オートバイ、自転車、通行人ですね」「相当いたように思うと」「そうですね、まあとにかく主要路ですから大分おつたわけです」(以上記録一二一〇丁表乃至一二一一丁表)旨の供述記載、同列車が第一県道踏切に差しかかつた時同踏切を自転車乗りが通過しようとした際の危険な状況につき、証人佐々木マサ子の証人尋問調書(記録九七九丁表乃至九八〇丁裏)中、同証人の供述として、「さつき自転車の人が通つてくる時にですね自転車を制止したことがあつたんでないか「「はい向こうのほうから来たのはね、こつちのほうで私はいわなかつたんですけれども見てた人がいたんです」「何といつたんですか」「汽車が来るから」「見てた人というのはあなたのお母さんでないですか」「そうです」「何といつて制したんですか」「汽車が来るといつたんでなかつたかと思つたんです」「危い危いといつたんでないですか」「何か危いとか汽車が来るとかいつて」「そういうことがあつたんですね」「はい」旨の供述記載、証人石田喜代司の証人尋問調書(記録九九七丁裏乃至一〇〇一丁表)中、同人の供述として、「この日の午前五ノ丁をでて長野行のバスを運転して第一県道を通つた記憶はありますか」「はい通りました」「その際に第一県道踏切の遮断機がどうなつておつたかご記憶ありますか」「あそこを通過した時の踏切の状態は今でも覚えてますけれどもね」「どんなふうでした」「遮断機は上つてました」「それでどうしましたか」「通過の場合ですか」「ええ」「私たちの場合は車掌さんが合図しますわね誘導します、その場合誘導しましたし私の場合でました、その時踏切にかかると、「ベルが鳴つてることに気づきましたね」「ベルが鳴つておつた、踏切のベルですか」「踏切のベルがなつていました、最初東三条のほうを見まして、それから弥彦線のほうを見まして、私の場合は確認しましてでたんですが、しかるのちまた東三条のほうを見た場合にヂーゼルカーの来たのを認めたわけです、それで急いで通過したと、こういうわけです」「車掌さんが降りて誘導したわけですね」「私は安全確認のために停車した場合はベルは踏切の相当手前にとまりましたから、というのはやつぱりもし最悪の場合、汽車がきてもあまりにも自動車のスピードが落ちてる場合危険ですから相当スピードがでるように若干踏切よりあとにとまるわけです、その場合はベルには気づきませんでしたけれども踏切の上に上るころになつてからベルが鳴つてることに気づきました」「そうするとベルの鳴つてるのに気がついたというのは踏切にさしかかつた際ですか」「そうです、車掌さんの安全確認が終つたのちにです、それでベルが鳴つてるし、これはまあ危いなと、何だかそういう予感がしましたからね、そういうあとにまた東三条のほう見たわけです、その時カーブのあたりにヂーゼルカーが見え始めたのです」「そうすると踏切から何メートル位離れてますか、そのカーブは」「そうですねあれやつぱり二百メートル位あるんではないでせうか」「どんな速力で来るように思つたですか」「さあ、そういう場合は逃げるのが本意ですから、そういう点までははつきりわかりません」「じやあ速力がどんな速力で来てるか」「そういうことより見てびつくりして逃げるのに精一杯ですわ」「どういう投書をしようと思つたのですか」「あまりにも、まあストは反対じやないですけれどもあまりにも人命的にも考えても踏切の場合は安全を欠いてまでこういうことをやる必要がないんでないかと私は思いました」旨の供述記載等を綜合判断すれば、踏切警手の職場離脱した各踏切においては、その事態を知らない一般通行の人車が相当にあり、且つ、現実にも危険を感じていた具体的状況にあつたことは明らかであつて、具体的危殆犯の成立に必要な危険は現に発生していたものと認定するのが相当である。
原判決が、判示の如く右と相反する認定をしたことは信憑力ある証拠を排斥した誤れる事実認定と断ぜざるを得ない。
以上の如く原判決には法令の解釈適用及び事実の認定を誤つた違法があり、いずれも判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決を破棄し、更に相当なる裁判を求めるため控訴に及んだ次第である。